10月も中旬を過ぎました。今のところ、行楽の秋を外で過ごすよりも、室内寄りになっている最近。家の中でのやりたいことが多くて。日記代わりにコレを書いておこう。
それと今日は水槽に鯉が仲間入り。
天気の良い秋晴れには、近くの見晴らしの良いところに行ってお昼に手づくりお弁当か、おにぎりかサンドイッチを持って外で過ごそうかな。
今月の図書。気になり手に取ってから、あまり時間をかけずに選んだ数冊の本から。
一本の線をひくと
「グオーグオーカッカッカッカ」かすみちゃんのおばあちゃんの大声。この本の中で、症状の一つとして出てくるおたけび。小学生だった当時の作者が認知症をはじめて知った時の物語。
ねこはしる
これは紙芝居で、今回の本読みで使えるかと読まずに借りてみたのですが。こねこのランと魚とが仲良しになり楽しく過ごした歳月、そして話のクライマックス。まさかの涙なしでは読めない衝撃の紙芝居でした。
こねことおつきさま
ねえ、おつきさま。ぼくと あそびたいの?
いっしょに くる?
元気いっぱいの子ねこを描く、1954年刊行のフランスの名作絵本。
いえも ない。ともだちも いない。ぼくは じゆう きままな のらねこだよ!
満月の晩にのら猫の、ぼくについてくる、お月さまといっしょに農場にミルクを飲みにいく様子が描かれています。最後はミルク瓶を倒した物音で、住んでいる兄妹に見つかり、お家で一緒に暮らすことになります。
《おつきさま、みて!僕なでてもらってるの。》ああ、いい きもち。ゴロゴロ ゴロゴロ。ねえ、おつきさまも おいでよ。このこたち、いいこだよ。こんどは みんなで あそぼうよ!《》内のこの状況を伝えたくなるほど喜んでいる、こねこが可愛らしい。なでてもらっているところを、今まで気ままに過ごす中でも、一緒についてきていた、みんなを見守るかのようなおつきさま。
上にご紹介した「ねこはしる」と「こねことおつきさま」共通のモチーフに『満月の月』が登場しています。下にご紹介する「へいわとせんそう」も、同じ絵から真逆のことばや意味を感じ取ることもあります。同じテーマやモチーフに対しても、異なる視点や解釈があることに気づきます。例えば、ある人はそれを希望の象徴と捉え、別の人は悲しみを感じるかもしれません。このように、同じ対象物でも人それぞれの経験や感情によって、印象が大きく変わるのが面白いですね。
森のプレゼント
絵本と小説の中間。小学生の中、高学年向きの本ですが、これは表紙の絵に惹かれ手にとりました。安野光雅さん、絵・訳 どの絵もかわいらしく見入ってしまいます。クリスマスに向けて準備をしたり、いとこがボブスレーに乗って訪れて一緒に過ごすクリスマス。装飾や料理にしてみても、昔ながらの手づくりのあたたかさやその様子に想像が膨らみ雪の中の家に灯るランプやクリスマスのワクワク感を味わえるお話。
へいわとせんそう
文章は谷川俊太郎さん、生まれ年からすると現在93歳でしょうか。現代で活躍する美術系のアーティストの方とも共作している作品を度々見かける。スヌーピーのTシャツも着こなしていた。もちろん谷川さんよりも今は亡き年上のアーティストの方との作品も多数あって、活動フィールドの広さと、創りつづけて洗練された感覚。アップデートされ続けているのか現代人より新しい気すらしてきた。流行を追っていないからなのかな?思えばその時どきの流行に沿ったものは少し経つと古さが目立つのかも。コラボの内容も豊富で、個人的に知らなかった作品に出会うと、ここにもあった!と。この本ではどんな世界を作ったのだろうと読書家ではない私でも読んでみたくなる。
子ども向けに置いてあっても大人が唸るようなものを なんのためらいもなく書いて出している。子どもなり、大人なりその立場なりでの受け取り方をすればそれでいいですね。全てにおいて違えど、今ご存命で同じ現在を過ごしていると言う共通点があることは嬉しい。最近改めて、達人過ぎて面白くなる域。
猪熊弦一郎のおもちゃ箱
愛しているところに美があるからなんです。
愛情と美は はなれることができません。
猪熊弦一郎
美については人の数だけ自分哲学があるものだな。本の中でこの上の文章のように、作者の美のあり方を見かける事が度々ある。今まで多くは読み流していたけれど、そのテーマを目にする機会も増えている。と感じるのは惹かれるテーマだからなのか。この際、各々のそんなフレーズを見かけたらメモしよう。集まったら楽しそう。
画家のマティスとの交流や様々な影響を受け描くなかで、表紙のらく書きのような絶妙な線画や、本の中に掲載されているが、好んで描いた沢山の猫や顔。カラーペン一色で描かれた絵があり、見ていて楽しくなるヘタウマ感が心を捕らえました。このちょっと変なねこが可愛すぎるので模写して刺繍したい。
部屋の風景の一つだが、ここにはアンティークのものはない。
白いカーテンの前にイサム・ノグチデザインの大きな提灯、その前に北欧のガラスのびんがある。
この中にやわらかいススキを挿してみた。ジョン・レノンが日本に来ていた時、ちょうど私は病気であった。 その時ススキを見舞に持って来てくれたが、とうとうそれが形見になってしまった。
その後、私達はピカソの大回顧展を見るためにニューヨークに出掛けた時、ダコタハウスにオノ・ヨーコとジョン・レノンを訪ねたが、要心深い門番で、とうとう会うことが出来なかった。 それから数週間過ぎてジョンはこの世を去った。痛ましい事件であった。
ススキの前に二つのイームズチェアーと伊太利製のランプがのったイームズの白い小テーブルがある。
窓外にあるオリーブの樹の小さな固い葉を通て、朝日が静かに部屋の中に流れている。
下記は10/30追加編集してます🌰こちらも10月に読んだ本
春 夏 秋 冬はる なつ あき ふゆ
絵と文 香月泰男 谷川俊太郎 編
画家の香月泰男さんと谷川俊太郎さん編、を借りてきました。画家の香月泰男さんが描かれた絵に、谷川俊太郎さんが詩か文章かを添えているものかと画集を開いてみると、いつもとは違う古典的な文章に、谷川俊太郎さんはこの本ではどの担当だろうとしばらく探してみました。すると一番最後の「あとがき」に現れました。
「あとがき」に記された文章も読み応えがありました。
故 香月泰男さんのアトリエに残された絵に、詩か文章を添えると言う依頼で始めた本の制作。資料として集めた香月さんが日々の中で書かれた文章を前に、考えた末「私はただもっとも強く胸を打たれた箇所に傍線を引くだけでよかった」と記されていました。下記添付は各シーズンから
私は毎年のことだが、今年も庭の椿を描いている。ただ椿の花の咲いているのが眺められるしあわせのしるしとして描いている。
ただの雲がデルラ・フランチェスカの雲に見えたことは絵を描いていた私の幸せでもあり唯一のなぐさめでもあった。
平々凡々、来る日去る日が同じである方がよいと思つている。私に若さが無くなったためかもしれぬがーーー。それでは清新な仕事ができぬではないかと思はれもするが、しかし、今は確かにさういふ心境なのである。山野の花々を見るがよい。何も来年は今年より美しく花を咲かせようなど努めてはをらぬやうだが、それでも咲けば美しい。敢えて絵かきとは言わぬが、人間もかくあるべきだと思ふ。要するに花は、絵は、一見まずしくみえようが生きていることだ。
私は今、この美しい冬らしくない冬の古里で、最も冬らしかつた冬の夜中を想ひ出しています。また生きのびるためにした恥かしい様々な行動も。が、それが私の本当の姿だったと思つています。
雪の中はわづかなよごれも目立ちました。
香月泰男さんの日々の暮らしの中で綴ってこられた文章、それを効果的に抜き出す作業をされた谷川俊太郎さん。絵と文が共に作用して作品の印象を深めていることを実感し、素晴らしいものと感動しました。どの瞬間でも胸に響く作品に出会えるという事は嬉しいことです。
読んで、本について書いてみると どれもそれぞれ違ったものを提供してくれて、一言でも感想を残しておくのは読んだ本の内容、作者や背景、また自らがその時はどう感じとったかを改めて知るきっかけにもなるし、読んだら一言を記録してみようかな。
ありがとうございます🦇🎃🍭
また次回です👋
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